f

缶   詰


 最新エントリ配信

最新エントリ
2014/02/28
カテゴリ: 缶   詰 : 

投稿: 旅システム (6:30 pm)
   2014年2月22日に平和ツアー連絡会・たかさき法律事務所9条の会・旅システムの3者で共同してソウル市立大学の鄭在貞先生の講演会を開きました。 先生には20年前からツアーの時にソウルで講演していただいたり、ツアーの時に案内していただいたりのお付き合いです。 今回短期間でしたが、北大で教えることになって札幌にいらっしゃいました。 参加者の田沢さんが講演の内容をまとめてくださいました。

(青木)
 



「韓国から見た東アジアの情勢」鄭在貞教授の講演 2014年2月22日 15時―17時

東アジアで今起きている事は、50年100年という長い時間で見ることが大切だ。日本と韓国、中国はなぜ互いに反目しているのか。1895年の日清戦争での日本の勝利は東アジアの中心が中華帝国ではなくなったことを示す世界史的な出来事だった。中国は日清戦争以降の50年間は内線でまとまることができず、中国の建国後の30年は貧しい国であった。80年代から始まった改革開放路線によって現在では中国は世界第二位のGDPを持つ大国となった。中華帝国が復活するだろうか?

韓国は1910年の日韓併合と35年間の日本による植民地となり1945年の解放の後に分断国家となった。1965年に長い交渉を経て韓国と日本は国交正常化をした。軍事政権が続き貧しい国だった。現在では世界第12位の経済力を持ち、日本人と変わらない生活をしている。100年前は帝国主義に対して国を守ることはできなかった。韓国の故事で韓国は大国のクジラに挟まれたエビだった。今ではイルカくらいにはなった。日本はそのことに気が付いていない。

日本を無視する唯一の国は韓国だ。日本は案外と日本人はそう思っていないが大きい国だ。韓国の4倍の人口を持ち、GDPは韓国の5倍、海洋を含めると大きな領土を持つ。でも、韓国も小さくはない。中国、日本、ロシアと大国に囲まれているから小さく見えるが、ヨーロッパに韓国が引っ越しすれば人口はフランスと同じで大きな国である。韓国は大国になってきたことを日本に認めてもらいたいと思う。

サムソンがソニーを超えたというが、サムソンの製品の核心となる部品は日本製である。サムソンの輸出が伸びるほど日本には利益になるという構造になっている。現在では貿易、人の移動は韓国、日本、中国は互いに密接な関係がある。でも互いに低く見ようとして対立している。特に「歴史問題」「領土問題」が鋭く対立している。韓国人の40%は中国人が嫌いで、50%は日本人が嫌い。

サンフランシスコ講和条約には韓国、中国、ソ連が参加していない。日韓条約は14年も協議が続いた世界でも例のないことで。日本は植民地支配を合法だったとして譲らない。ドイツと違い日本は海を隔てており戦争に向き合わなくてもやってこられた。日本人は韓国について歴史の関心がとても低い。司馬遼太郎は東大にきて講演した時に「韓国人は朱子学にこだわりメンツを重視するあまり社会が発展しなかった」「韓国には貨幣経済がなかった」と言ったが、それは間違いである。こういう見かたを乗り越えるために韓国では民族教育が行われてきた。日本は1990年代半ばまでは、国際社会の中の日本という視点があったが、90年代後半から「自虐史観」を主張するグループが影響を持ってきた。このグループの教科書が採用されてきている。中国では中華思想の復活が懸念される。中国は92%の漢族と8%のその他の民族で構成された多民族国家だが、習近平は「中華民族の栄光」ということを言い出している。中国では古代の朝鮮にあった高句麗、渤海の歴史を自国の歴史にとりこもうとして対立がおきている。

自分の国と他国に優劣をつけようとする考えを改めることが必要だ。日本は皇国史観、日本の歴史を特殊だと強調し、中国は中華思想で中国が世界の中心で他国は野蛮国という考えを持ち、韓国には小中華思想がある。このような国家主義的歴史観を乗り越えて市民やマイノリティーの視点から歴史を知ることが大切だ。日韓には2500年という長い交流の歴史があることを学び、互いに歴史認識には違いがあることを知るべきだ。それは知っている事の知識の量による違いであり、もっともっと歴史を知れば考え方が変わっていくことになるだろう。平和や人権、民主主義という普遍的価値で歴史を見ること、国を超えて東アジアという視野で歴史を見ていこう。相互関係の密接なことを見直して歴史を再構成していくことだ。そのために一つ目は原因を調べることで、歴史認識の争点を根本的に研究し直すことだ。二つ目は対処療法で、互いに資料を公開し対話し、国民に知らせること。3つ目は生活療法で免疫をつけること。日頃から市民レベルで歴史の勉強をして、誰かから煽られても、きちんとした知識で考える力をつけていくことだ。

ヨーロッパでは歴史認識の対立がナショナリズムとなり、2回の世界大戦の原因となった。その教訓がEUの設立となった。ヨーロッパは王家同志が結びつき国の歴史の個別性は大きくないがアジアは国の個別の歴史の違いが強くあるという違いがある。しかし、アジアの共同体という構想を大胆にしていくことが必要だ、日本には19世紀末から20世紀初めにかけてアジア主義を考えた人がたくさんいる。しかし、それは日本が中心となるとう限界があった。安重根の東洋平和主義では、共通の銀行や貨幣をつくることを、100年前に提案しており驚く。

   

 

(記 田沢 裕一)


| コメント (0) | 閲覧数 (981)
2014/01/28
カテゴリ: 缶   詰 : 

投稿: 旅システム (5:15 pm)
   1月18日 旅システム友の会の初めてのイベントに「バーチャルツアー韓国」ということで、ナヌムの家でボランティアをされている工藤千秋さんとの懇談会をいたしました。 その折、ナヌムの家の安所長から新年のご挨拶のメッセージをいただきましたのでご紹介します。

(青木)
 



 

こんにちはナヌムの家所長 安信権です。
日本軍「慰安婦」被害者ハルモニたちに常日頃関心を持ってくださっているすべての方々へ、ハルモニをはじめスタッフ一同 心を込めて新年の挨拶を申し上げます。
あけましておめでとうございます。
こちら韓国では旧暦で正月を祝います。
迎える1月31日をもって改めて2014年1月1日となります。
今年もどうぞよろしくお願いします。
皆様方のご健康とご発展を心よりお祈り致します。

昨年は、各方面の皆様方のお力添えのおかげで、ハルモニも健康を害することもなく、大変ハードな日程にもかかわらず、アメリカ、ニューヨーク、LAをはじめとドイツの5つの都市、日本の3都市で証言活動を無事に終える事ができました。
イオクソン(88)、カンイルチュル(87)、バクオクソン(91)ハルモニは、誰よりも熱心に昨年一年、大きな活動をしてくださいました。

2014年度  今年もハルモニたちは、昨年度の皆様方の出逢いに大きな感触をつかまれ、もっとより多くのまだ知らない世代に、『二度と私達のような悲惨な被害者がでないように、二度と戦争をしないように…』
歴史を正しく知り伝え、日本の公式謝罪を、私達に名誉回復ができる日を期待と希望を込めて、2014年 も活動する。と言う事でスタート致します。
2014年3月に日本の名古屋を皮切りに、米国LAの大学巡回証言会、ニューヨークのH.Res121決議案7周年記念式典、ドイツのベルリン大学と、海外証言会を計画しています。
各方面からの熱い支援と応援に再度ハルモニが動く決意を示してくださいました。

そしてまた、証言会だけでなく、2012年6月に亡くなられた金華善ハルモニの意を受け、日本軍「慰安婦」人権センターの建設をも計画しています。
2014年3月1日の追慕祭行事の時に着工式をしますが、まだ充分な資金がなく建物が完成するまで、継続的な支援を受けています。
そしてもう一つは、17年間 政府の支援なしで運営している日本軍「慰安婦」歴史館・ナヌムの家ではこの間 ナヌムの家で生活され過ごし、そして亡くなられて行かれた ハルモニの生涯を示す[ 追悼館 ]も建設予定しています。
皆様方の中で、もしもハルモニに関する関連資料・関連の遺品を保管していらっしゃる方は、是非ナヌムの家にお知らせしていただきたいです。
そして可能であれば関連品を寄付してくだされば [ 追悼館 ]で役立たせていただきたいと考えています。

その他いくつかの年間行事として、今年もナヌムの家では、外地(地方)で住んでいらっしゃる被害者ハルモニを訪ねるキャラバン 福祉サービスを積極的に提供して行こうと考えています。
ナヌムの家のハルモニと外部にお住まいのハルモニに、少しでも生活するにあたり不自由の無いように、健康管理は勿論、食生活支援、そして何よりも過去の苦しくてつらい出来事に、少しでも対話を通してケアーできるように、さまざまな行事やプログラムを提供しようと計画しています。

皆さんの積極的な関心と支援は、日本軍「慰安婦」被害者ハルモニたちの、勇気と希望になります。
勇気と希望が折れないように、今後も持続的な関心お願い致します。
また、日本軍「慰安婦」人権センターの建設と追悼館建設に賛同をお願いします。

ナヌムの家は、2014年の一年  日本軍「慰安婦」被害者問題が解決することができるよう、積極的な活動をし、ハルモニたちの安らかな老後を送ることができるように努力してまいります。
どうぞ皆さまも 引き続き関心を持って…そしてまだ知らない世代にも歴史をありのままに、国と国との方よりのない形でありのままに伝えて行っていただきたいと思います。

歴史は生きています。
まだ戦争は終わっていません。
解決できずに見過ごされ、生きて伝えているハルモニを目の前にして、過去の終わった事とされ今だに傷をつける…そんな事をどう思われるのか?考える時間を設けていただきたいと思います。
2014年、必ず日本軍「慰安婦」被害者の問題が解決されることを願い 、 ナヌムの家 安信権所長をはじめスタッフ一同努力してまいります。
今後とも どうぞ よろしくお願いします。


ナヌムの家 安信権所長をはじめスタッフ一同

{皆様方の支援をお待ちしています。}
郵便局(店名):008 (預金種目) : 普通預金(口座番号): 2325008    (口座名義): ナガハマ カズコ  
*個人名になっていますが、ナヌムの家で依頼した支援者です。

以前から韓国のナヌムの家口座がありましたが、日本から韓国に銀行口座として振り込むには簡単にできない、振込み手数料がかかる、ローマ字書きが面倒、複雑…などの意見もあり日本に口座を作りました。
 本来、名前の欄に「ナヌムの家基金」と開設したかったのですが、日本国内にナヌムの家という基本母体がないのでこういった形では開設できないと言われ、こちらから支持して作成することもできず、
結果、調べていただいた、ボランティアの長浜さんにお願いして作っていただきました。

ナガハマ カズコ・・・・・
2006年からボランティアをしてくださっている方。
毎年、年2~3回、韓国ナヌムの家を訪問しハルモニのケアーはもちろん、さまざまな仕事のお手伝いをしてくださっている方です。
ナヌムの家との条件を受け入れてくださり正式に窓口になってくれることを約束してくださいました。




ナヌムの家所長 安信権

| コメント (0) | 閲覧数 (1853)
2013/12/20
カテゴリ: 缶   詰 : 

投稿: 旅システム (2:59 pm)
2013年11月15日〜17日に岩国にて日本平和大会がおこなわれました。
平和新聞北海道版にて参加者の報告を紹介しています。

平和新聞北海道版を見る
| コメント (0) | 閲覧数 (1339)
2013/12/19
カテゴリ: 缶   詰 : 

投稿: 旅システム (4:05 pm)
  旅システムでは2013年12月の社員研修で沖縄に行った折、名護市長選挙を控えた稲嶺ススムさんの事務所を訪問し激励をさせていただきました。
「海にも陸にも米軍基基地は造らせない」と訴える稲嶺ススム現市長を、旅システムでも応援していきたいと思っています。
このコーナーで地元のニュースなどをご紹介します。

 

****************
後援会ニュース(2013/11/8版)
 表紙は9月に札幌ドームで北海道日本ハムファイターズの始球式での写真です。
ジャンバーの胸にファイターズのマークが見えます。

ニュースを見る(PDF)

統一連ニュースを見る(PDF)

たかさき法律事務所9条の会さんからのメッセージ(PDF)

*****************



| コメント (0) | 閲覧数 (1033)
2012/07/26
カテゴリ: 缶   詰 : 

投稿: 旅システム (11:56 am)
   今年50年の節目の年を迎えた道生連さん。記念のイベントをいくつか企画した中にこの『先住民の足跡を訪ねる旅(2012年7月8日〜10日)』をおこない、旅システムでもお手 伝いをさせていただきました。
 とても充実した、そして道生連さんらしい旅になりました。
 岡崎さんのレポートをご紹介します。

(青木)
 



 結成50年に当たり、北海道生活と健康を守る会の運動の原点を探ろう!ということで設定されたツアーでした。思い返せば、札幌→平取→阿寒→網走→札幌の全行程約600キロを3日間で、平取アイヌ資料館、阿寒湖遊覧(マリモ館)、阿寒アイヌコタン見学・古式舞踊観覧、摩周湖、硫黄山、北方少数民族資料館〜ジャッカ・ドフニ、網走監獄博物館、北方民族資料館、鎖塚の計9ヶ所に立ち寄ってですから、随分と内容の濃い旅だったと言えましょう。

 思いつくままにボク的な感想です。
 日高高架道路で平取に向かう時に、苫小牧東部開発地帯を突き抜けました。ボクが苫小牧に住んでいて仕事で日高路を走った頃は、石油備蓄基地などは国道の高さからでもタンクの“雄姿”が臨めたものですが、あれから二十数年、高架道路の上かもでもタンクが見えないくらいに木々が繁茂しており、農民を立ち退かせ、巨費を投じて造成したのに工場がこなければ数十年で元の森に逆戻り。自然の逞しさと人間の愚かさを痛感した風景でした。
 その苫東に必要な工業用水を確保するとの振れ込みで、アイヌの聖地を湖底に水没させてまでも作った二風谷ダムは、平取アイヌ資料館の目の前。昼食を食べた平取温泉は、子どもが小さい時に家族でキャンプ来たことがある。その時に遊んだ遊具を眺めていたら、遊具の裏に「電源立地交付金で建設」のプレートが。折りしも原発のある自治体にバラまかれた“原発マネー”が思い浮かび、“電力マネー”はこうした使われ方をしているのだと、根っこは同じだとわかった瞬間でした。その二風谷ダムも上流から運ばれてくる砂が湖底に予定より早くたまり、渇水期には湖面に顔を出す始末。
 ここでも人間の造形物の限界と自然のポテンシャルの高さを強く感じました。だから、狩猟採集生活ではあったが自然の流れに逆らわず、川の流れの如く、自然の中で生活を営んでいたアイヌ民族の持つ精神文化の優位性には驚嘆します。それは、今日的に言えば、人間の力では制御できない原発はやめて、再生可能エネルギー=自然エネルギー社会に再構築する事業がそれだ!と強く感じたのでした。
 また、民族の文化を継承する権利を保障するには、その文化継承の営み自身で充分に生計が立てられることが基準ではないか、そのためには既成の法令の概念をこえた制度が必要で、それには少数民族の保護の“先進国”に率直に学ぶ必要があると、阿寒のコタンで数年前に来た時は生活館として貴重な生活用品を見ることができた大型のチセが閉じられていた侘しさから、そう思ったのでした。

   

 アトサヌプリ(硫黄山)では、標茶に立てられた釧路集治監獄の囚人によって硫黄の採掘が行われましたが、樺戸集治監が石狩川流域を開拓し、石狩と旭川を結ぶ今の国道12号線の元を作り、空知集治監が幌内炭鉱の採掘にあたり、網走集治監が旭川と網走を結ぶ今の国道39号線の元を作るのを“担当”しました。つまり、北海道の開拓の礎は囚人による強制労働でした。それは、明治政府の“政策”でした。今でも、噴気孔近くまで行けば、その臭いは強烈で風向きが変わったら咽てしまいます。囚人は、このガスと粉塵で失明し、あるいは過労と栄養失調で倒れ亡くなりました。
 39号線は、「ボヤボヤしているとロシアが攻めてくる」という明治政府の危機感から強行な工事がやられ、網走と空知の囚人千人が動員され、300人が死亡し、路傍に葬られた。そのため、掘ると骨と囚人の足にはめられていた鎖と鉄球がでてくることがあった。そのあとを「鎖塚」として供養しています。また、怪我や病気ではたらけなくなった囚人を人身御供として生き埋めにしたなどの記録もあり、「常紋トンネル」という所では、トンネルの改修工事をしていたら人骨がでてきたりしています。しかし、囚人だから人間扱いされず、強制労働に借り出され、死んだら路傍に埋められる、時には生きたまま埋められる、そんなことが許されてよいのだろうか。しかも、明治政府の圧制に対して自由民権の旗を掲げてたたかった政治犯のほか、政府に抗う者は次々と逮捕・投獄されたために、監獄の維持費用を抑えるために敢えて苦役を与えて、人減らしすることを“政策”としていたのだからヒドイ話です。国民は天皇に仕える臣民で、いざという時は「命は鴻毛よりも軽し」と育てられ、人権意識など微塵もない社会ですから、弱者に陽が当たろう筈もなく、まして国に抗う囚人の命などなんとも思わない社会が、つい70年前の日本です。強制労働や拷問で殺されることはなくなりましたが、取調べや獄中生活での人権軽視は、いまだに見受けられるのが現状です。

   

 網走で、北方少数民族資料館〜ジャッカ・ドフニに行きました。本で知ってはいましたが、アイ子さんが亡くなって閉館になっていたことがショックでした。元教員の弦巻宏史さんが、私たちのために資料館を開けてくれ、解説をしてくれました。兄ゲンダーヌさんは、旧日本領樺太でソ連(当時)の国境地帯でトナカイを追って生活する遊牧民族でした。現地の日本軍はこの習性を利用して、「オタスの杜」で教育し、国境付近でスパイ活動を任務としました。戦争が終わると日本人は本土に戻りましたが、ゲンダーヌさんはそこが故郷ですから残りました。ところが、ソ連からは日本のスパイとしてシベリアの捕虜収容所に送られてしまいました。多くの仲間がそこで亡くなりました。刑期を終えたゲンダーヌさんは、「日本人なろう。日本が助けてくれる」と思い、北海道に渡ってきましたが、戸籍がない、徴兵や徴用の記録がないということで、裁判にまで訴えましたが認められませんでした。
 第二次世界大戦における侵略国で、為政者の戦争責任を曖昧にした唯一の国が日本です。そして、戦争をすすめ国民を苦しめた勢力が堂々と政治、経済、軍事の表舞台に返り咲くことが許されたのも日本だけです。日本が攻め込んだ外国との関係ではその国の政府と“適当”な条約を結んでは、これでおしまい、以降の責任は一切負いませんという内容です。戦時中は、日本の占領地の“民”は皇民化教育を受けさせられ、日本名を名乗らされ、日本人扱いをされて徴兵・徴用を受けました。ところが戦争が終わったら、「戸籍では日本人ではないから」と軍人恩給あたらず放られる、あるいは、その地に置いてきぼりにされるということが各地でありました。中国に満州国を作り、移住させた日本人すら日本に返すことに責任をとらない国が、他民族の面倒を見るわけはないのは当然なのでしょう。
 ドイツでは、戦争責任を明確にし、今でも戦犯を追及していますし、ユダヤ人をはじめ少数民族などナチスによって迫害された国民・他国民への保障を国として果たしています。何と言っても教育を通じて、国が犯した戦争犯罪の内容を知らせ、戦争責任を明確にしてきました。戦後、経済力は世界に誇れるものとなりましたが、国民主権の憲法をもちながら、人権意識という面で遅れている、他国の軍隊が国内で我がもの顔で振舞っても、経済的な圧力をかけられても「条約があるから」と受け入れる。こうしたことの大本に、戦争責任を政治的にも、社会的にも明確にしてこれなかった歴史の“負の遺産”を憲法を国民のものとして社会に根付かせることに成功させられないできた運動の“負の遺産”を背負っているなぁ〜と、ジャッカ・ドフニで痛切に思いました。
 大きく言って、以上3つのことを考えさせられた、意義深い旅でした。満足、満足。

 ところで、網走で解説をしてくれた弦巻さんですが、父親から「弦巻という親類に先生をしているのがいる」と聞いていたので、胸騒ぎがして、思い切って質問を重ねていったところ、やはりお互いの爺様が兄弟でした。つまり、復従兄弟と言うことになります。ボクの爺様は兄弟が多くて、子どものいない岡崎家の養子になったです。婿養子ではないので、血統的にはボクには岡崎家の血は流れておらず、むしろ弦巻家の血筋ということなります。そんな出会いもあったので、グッド・ジャーニー!この上ありません。


2012年7月20日 道生連 岡崎 恵治

| コメント (0) | 閲覧数 (3932)

« 1 ... 7 8 9 (10) 11 12 13 ... 16 »

Powered by XOOPS Cube 2.0 © 2005-2006 The XOOPS Project