自衛隊の違憲判決を勝ち取った長沼訴訟1審判決から、50年と1年が経ちました。私は今20代後半で、長沼訴訟を高校の社会科で知識として断片的に学んだ世代です。昨年(2023年)の50周年の記念行事と、今年(2024年)の長沼ツアーに2年連続で参加させていただき、当時運動に携わってきた方々の話をたくさん聞くことができました。その中で、学んだことや感じたことを記述してみようと思います。
(1)裁判で勝っただけではなく、運動で勝ち取った
 当時の運動を知る人たちの姿で、印象深いものがありました。「久しぶりだね。あのときは学生だったね」と当時を懐かしそうに語り合っている姿です。当時の青年たちが主体になって運動を引っ張っていたということに励まされ、私も頑張りたい気持ちになりました。
 裁判所の前に連夜テントを張り、恵庭を含めた全69回の公判で、自衛隊側に1枚も傍聴券を渡さなかったそうです。札幌西高校の定時制の生徒たちが、授業終了後にテントに集まって共に学び励まし合っていたという話も教えていただきました。
 福島重雄裁判長は、偉大な裁判官です。「平賀書簡問題」という裁判の独立を揺るがす干渉を跳ね返し、法の支配を守った裁判官です。そして、憲法判断に逃げることなく向き合い、自衛隊の違憲判決を打ち出しました。
 しかし、判決文は福島裁判長だけが書いたのでしょうか。私は運動に携わった人々みんなで書き上げた合作なのだと思います。「自衛隊は憲法審査になじまない」「平和的生存権には具体的な権利性がない」と主張する専門家もいますが、これらをはねのけたことに、若い力を含めた運動の底力を感じます。
(2)住民の命と暮らしを守るたたかい
 バーベキューの席で、「長沼はあくまでも、住民の命と暮らしを守ることが目的のたたかいで、自衛隊の違憲を勝ち取ることはその手段なんだよ」と教えていただきました。
 長沼町は低地で、明治時代から洪水に見舞われ、多くの死者を出した地域です。住民の生業である稲作にも、被害を及ぼしました。洪水から住民の命と暮らしを守る役割を果たしてきたのが、馬追山です。
 ところが、馬追山の水源涵養保安林の指定を解除し、自衛隊航空ミサイルナイキハーキュリーズの基地をつくる計画がもちあがります。ミサイル基地のために木々が伐採されれば、水害のリスクも高くなるうえ、有事の際は攻撃の対象になるでしょう。ミサイル基地の建設を阻止することは、地域住民にとって切実な問題でした(裁判の中で自衛隊は地域住民を守るためではなく、米軍を守るためにあることが明らかになりました)。
 住民の命と暮らしを守ることを土台に据えたからこそ、裁判で平和的生存権が認められました。憲法の理念だけを叫ぶのではなく、住民の立場に立ち、地に足をつけたたたかいを展開していたことに、心を打たれました。これこそが、全国から多くの共感が寄せられた理由なのだと思います。
(3)長沼平和友好米の取り組みに賛同して
 バスの中で、長沼平和友好米の取り組みが紹介されました。毎年、長沼で収穫したお米を、札幌の清田にある朝鮮学校の子どもたちに届けているそうです。早速、一口寄付しましたが、多くの人に知ってほしと、民主諸団体の仲間に働きかけ、協力をお願いしました。みんな快く応じてくれたことがうれしかったです。
 日本国憲法前文の平和的生存権は、全世界の国民が有することがうたわれています。日本の侵略戦争によって、多くの国の人々の命と暮らしを奪ってきた事実に向き合う必要があると感じています。平和的生存権は、被害者にも加害者にもならないための指針です。
(4)長沼のたたかいを
 2022年、岸田政権のもとで安保三文書が閣議決定されました。専守防衛をかなぐり捨てて、他国の軍事基地や政治経済の中枢にまでも、先制攻撃することが可能となりました。また、自衛隊がアメリカ軍の指揮のもと、攻撃が可能になると言われています。
 自衛隊が憲法9条2項に違反しているということが、50年前よりも目に見える形で明らかになっているように感じます。黙っていれば、私たちは加害者になってしまいそうです。
 だからこそ、恵庭・長沼で人々がどんな思いでたたかってきたのかという事実に目と耳を傾け、確認し合いたいです。平和に生きる権利を巡るたたかいを「歴史」としてとらえるのではなく、今、そして将来に生きるものとしてつないでいくことが、次の世代を生きる私たちの責任だと感じます。

細谷拓樹