2度目の福島でした。前回は2018年5月、一泊二日でほぼ同じコースを巡りました。
 それから6年、被災地はフレコンバックがきれいに片づけられ、道路沿いの朽ちた家は取り壊され、家々の入り口にあったバリケードも取り払われ、一見落ち着いた風景となっていました。復興五輪の掛け声のもと、沿道が整備されたというお話でした。
 しかし住民は戻っていません。浪江町の居住人口は震災前の2010年は2万905人でしたが、2023年8月の時点では、1割に満たない2044人です。
 福島では、原発事故後、法律で一般公衆の年間被ばく線量の規制値は1m㏜(ミリシーベルト)とされていたものを、20m㏜に引き上げ、現在も続いています。— ちなみに放射線管理区域の規制値は5.2m㏜で、管理区域内では飲食の禁止(医療法)、18歳未満の作業禁止(労働基準法)となっています。— そんな環境の中で子供を産み育てることはできません。子育て中の人たちは戻れないのです。

 今回は浪江町津島地区も視察しました。
 福島第一原発の事故で放射能プルームが流れ込み原発から離れているにもかかわらず最も放射線量が高かった地域です。かつては桃源郷とまで言われた地域が、今では全域が帰還困難区域です。唯一津島活性化センターの周囲が特定復興再生拠点区域となって2023年3月31日に避難指示が解除されています。センターの近くに10戸の復興住宅が建てられ、現在入居は7戸という説明でした。震災前には、1400人余りが住んでおり、診療所・お寺・小学校・旅館などもあった地区です。
 除染は敷地内と道路沿いの両側20メートルだけしか行われず、田畑はそのまま放置され周りの山も除染されていませんので、風が吹いたり雨が降ったりするたびに居住区が再汚染されます。
 夜ノ森駅にも行きましたがここも特定復興再生拠点区域となり2023年4月1日に避難指示が解除されています。駅の近くにモニタリングポストがあったので数値を見ると0.116µ㏜/でした。一緒に参加されていた方が持参した測定器で測ると倍の数値です。その後行った中間貯蔵施設でも同じことが起こりました。その方は「うそがまかり通っている」と厳しく抗議しましたが説明員は動じることもなく「大切なご意見ですので承って報告いたします」とあくまでも低姿勢でした。

 中間貯蔵施設は福島第一原発の周りを囲むようにして双葉町・大熊町にまたがる1600haの広大な土地です。除染によって発生した土壌や廃棄物を受け入れ、最終処分までの間貯蔵します。期間は30年。その後福島県外に運び出し最終処分することになっていますが、そのまま最終処分施設になるのではないかと危惧する人も多いとか。

 11日は宝鏡寺で行われた「2024 核兵器廃絶を求める 原発被災地集会」に参加。県内外から167名の人が集まり、宝鏡寺の境内を埋め尽くしました。震災が起きた2時46分、楢葉町のサイレンに合わせ全員で黙とうをしました。
 50年近く「原発の危険性」を訴えてこられた故早川篤雄住職(2022年12月29日逝去)は大事故が起きてしまったその悔恨と教訓を伝えたいとの思いから、その資料を展示するために賠償金など私財を投じて、「伝言館」を建設しました。また宝鏡寺には広島と長崎の原爆の火を種火とした「非核の火」が灯されています。

 最終日には寿都の核ゴミ問題をお話しする機会もいただきました。
 1月1日に起きた能登半島地震は、日本に地層処分の適地も原発の適地も無い事を証明しました。今すぐ全ての原発を廃止すれば地層処分施設をつくる必要もありません。地層処分施設建設を急ぐのは、再稼働すれば使用済核燃料を貯蔵するプールが満杯になるからなのです。
 文献調査の結果報告(案)が経産省の作業部会で審議されています。6月頃には終了の見透しで、寿都では住民説明会が行われその後住民投票になる予定です。
 ツアーの最後に団長が挨拶で言われた「夢も希望も作るものです」を心に刻み、仲間の人たちと共に頑張ります!

寿都町 幸坂順子