昨年はコロナで中止になったので2年ぶりの福島訪問だった。参加者17名の平均年齢は77歳、72歳の私は予想外に若いほうだった。また、前回と違い食事の場で参加者との楽しい交流もあり、とても楽しかった。食事も美味しかった。
振り返ってみると2011年3月11日東日本大震災が起こった日から1週間テレビに釘付けになり、ほかのことは何もできなかった。なんてことが起きたのだと頭が混乱した。そして被災者に心から同情した。しかし時とともに私の気持ちは次第に原発の事故を起こした東電や政府への怒りへと移っていき、被災者がその影に隠れた。これではいけない、自分の目で見なければと思い退職を機に最初の福島ツアーに参加したのが2年前だった。阪神淡路大震災の5年後に神戸を訪れた際には地震の爪痕はもう見られなかったが、福島は違っていた。10年も経っているのに草木がぼうぼう生えた人家や店舗が放置され、そして人がいない、どこへ行っても作業員以外の人を見かけるのはまれだった。
今回も私たちは貸し切りバスで移動したが、車窓から見る被災地は2年前に比べると少し変化していた。帰還困難区域の一部で避難指示が解除され人が住めるようになったので新しい住宅も増えていた。あちこちにあったフレコンバックは姿を消し、空き家も前回よりは眼立たなくなった。フレコンバックがなくなったのはその全部が2日目に見学した中間貯蔵センターに処理、貯蔵するために運ばれたからだ。
中間貯蔵センターは大熊町と双葉町にまたがる広さ16㎢で、それは東京都渋谷区と同じくらいの面積になる。ここは除染に伴う放射性物質を含む土壌や廃棄物、東京ドーム11杯分を処理、貯蔵する施設である。除去土壌は土壌と可燃物に分けられて処理される。可燃物は燃やしたその灰を廃棄物貯蔵施設に保管する。また土壌は戸外の遮水シート(放射性物質が土に染み込まないようにする)を敷いた上に貯蔵される。処理土壌の汚染度が低いものは畑や土木工事で使う実証実験が行われるという。今回はバスで処分場内を見学することができた。広大な面積の土地に四角い土置き場がたくさんある。30年間貯蔵後には県外で最終処分される予定だというが、これらの土の行き場は本当にあるのだろうかといぶかりながらの見学だった。
同日、富岡町の「アーカイブミュージアム」に立ち寄った。町営の博物館で、町の成り立ちや震災で失われた町民の日常を生活者の目線で伝えている。私が心惹かれたのは町の立体模型だ。賑やかな表通りには店が軒を連ね、人々が往き来する。子供も大人も年寄りもいる。祭りの神輿を担ぐ子供たち、それを見たり写真を撮ったりする人、買い物袋をぶら下げた婦人、自転車に乗る人、裏通りでは少年たちが相撲をして遊ぶ。震災前の平和な日常風景だ。そこは人々の大切な生活の場であった。しかし突然地震と津波が町を襲い、その上放射性物質で汚染され、住民はてんでんばらばらになり町に帰れなくなってしまった。ミュージアムの外は更地が目立ち、町と呼べる所は最早ない。その喪失感や絶望感は想像に余りある。何代かに渡って生活の拠点であった大切な故郷である。地震と津波だけなら早くからの町の再建が可能だっただろう。しかしそれは叶わなかった。放射性物質の拡散は目に見えないのに森も畑も町も汚染しつくし人が住めなくなる。町の立体模型を前に私の胸がチクリと痛んだ。あの日から12年の歳月が経ち、実体験のない私には他人事になりがちだった東日本大震災の被害や被災者がほんの少し自分事に近付いた瞬間だった。
被災した福島で生きようと頑張っている人たちとの出会いが今回もあった。彼らは意志があれば人はどん底からでも這いあがれることを示してくれた。来年もまた参加しよう、福島のことを忘れないために。そしてこれは自分自身の学びでもある。最後にこのような意義のある旅を企画してくれた「旅システム」さんに、心から感謝する。
下田恭子