2020年10月3・4日、新婦人旭川支部共同企画「平和の旅」が実施された。
 北海道開拓の歴史は、先住民族の同化政策、囚人等を使っての道路作り(鎖塚)等を知る程度で、更に戦争に関わっての史実は殆ど知らないので、今回の訪問先が何故選ばれたのか分からなかった。しかし、2月からずっとコロナ禍で外出もままならぬ閉塞された生活からようやく解放される喜びで、暗い穴から抜け出て思い切り深呼吸する清々しい思いで参加した。
 でも、そんな浮わついた気持ちは、最初の訪問地で一変した。
 朱鞠内は、太平洋戦争中に鉄道、ダム工事が行われ、タコ労働者や中国人・朝鮮人が強制連行され働かされた地であった。
 特に雨竜ダム(朱鞠内湖)工事には、朝鮮人連行者が2~3千人も働かされた。
 過酷な労働、粗末な衣服・食事等についての詳細な資料を作り、それを元にバスの車中でも現地でも旅システムの方が説明・案内して下さった。
 特に私は、この雨竜ダム=堰堤工事が非道な犠牲の上になされた事実に驚かされた。
 雨竜川の両側の山にワイヤーを張って吊り橋を作り、その上に足場を組んでレールを敷き、コンクリートを積んだトロッコを走らせる。堰堤は45メートルもの高さ。吊り橋が揺れる等の事故でトロッコが落ちると、運んでいた人も一緒に落ちたり、下でコンクリートを打っている人も足元がコンクリートでぬかるみ逃げられず事故に巻き込まれた。しかし、助けられる事もなく、一緒に犠牲になった。難行した隊道工事には、人柱にされた人もいたそうだ。
 私はこの光景が、旅行後の今も想像されて夢に見る日もある。
 朱鞠内にある光顕寺(真宗大谷派)が犠牲となった労働者に一夜の弔いをしていた。
 戦後、本堂内部は、雨竜ダムと深名線鉄道工事に於ける強制労働の歴史を展示する資料館となっていたが、豪雪の為倒壊し、今は再建に取り組んでいるとの事。私達もわずかであるが協力させていただいた。
 又、沼田町にあった昭和電工の炭坑へ中国から強制連行され、労働の厳しさから逃げ出し、12年間逃亡生活をしていた劉連仁さんに関する話にも胸が痛んだ。
 劉さんは、1944年に連行され、沼田の炭坑に送り込まれた。余りの厳しさに1945年7月30日、仲間と4人で逃走。他の3人は捕まったり保護されたが、劉さんは1958年2月8日、当別町の山林の尾根で偶然発見された。マイナス40度にもなる厳寒の地での逃走生活は想像を絶するものだろう。
 そして彼は同年4月10日中国へ帰国された。
 もし8月15日以降なら、天皇の玉音放送で敗戦が決まり、劉さんの悲劇はなかったのに、と、心から悔しく思った。

 この歴史的な「時」について、私は知らされた。
 留萌沖三船遭難―終戦秘話である。
 日本敗戦後、樺太からの引き上げ者を乗せた船が、1945年8月22日の朝、旧ソ連軍の潜水艦の魚雷攻撃を受けた。三船の死者・行方不明者は、計1,708名にのぼった。ソ連は、日ソ中立条約を8月8日に破棄し、日本に宣戦布告して攻撃した。留萌沿岸には多くの方の遺体や積み荷が流れ着き、漁師の方々は漁ができなかったそうだ。
 私は8月15日で戦争は終わったのに、と考えていましたが、実は9月2日、降伏文書の調印式終了で日本の敗戦が確定したので、それまでは戦闘状態であったそうだ。
 しかし、白旗を揚げて多くの女性や子ども達を乗せた船を一方的に攻撃したことは赦されないと思う。
 このように、国の為、戦争だから・・・と人間性を否定して、殺人、大量殺人さえ正当化するのが戦争だということを改めて考えさせられた。
 戦後75年を経た今も戦争の犠牲になられた方々の追跡調査をしたり、遺骨調査をしたり慰霊祭を続ける人々に私は心から敬意を表し、戦争をしない国の為に力を尽くそうと思う。
 初山別で見た美しい夕陽に誓いたい。

婦人旭川支部 久保田 イク子